「外国人」から、Englishman in New York、“legal alien”、「人権」、音楽、映画、小説、マンガ・・・徒然なるままに。
起案に疲れたので休憩がてら、久しぶりの更新です。
先日、関東弁護士会連合会の定期大会のシンポを聞きに行きました。シンポテーマは「外国人の人権」。
シンポに際して様々な調査活動を行った報告書の冒頭に、今回「外国人」という言葉を使用する理由が書いてありました。「外国人」という言葉を使うこと自体に議論はあるだろうが、今回はあえてこの言葉を使います。といったような内容のものです。この報告書は明石書店から「外国人の人権 外国人の直面する困難の解決をめざして」(関東弁護士会連合会編)として出版されていますので、関心のある方は、ぜひお読みください。
→ http://www.akashi.co.jp/book/b103902.html
さて、その中にも書いてありましたが、「外国人」というコトバ、概念は、実は相対的なものです。国籍の有無で分けるのか、日本国籍を持っていても外見がいかにも「外国人風」の日本国籍取得者は「外国人」なのか?たとえばラモスさんは?李忠成選手は?
「外国人」概念というものも、実体があるようで、本当はあまり実体がないもののように思います。もっと言えば、「絶対的」概念なんて、実はほとんどないのかもしれません。
「外国人」つながりで、Stingの、Englishman in New York を思い出しました。あの曲のPVに出てくるおばあちゃんは実は男性だ、みたいな話が、確かあったと思います。この曲のPVでその人を使ったのはもちろん意図的でしょうし、alien とlegal alien を歌詞の上で使い分けていたのも、きっと意図的だったのでしょうね(余談ですが、歌詞のこの部分を「合法的外国人」と訳すのは、曲のメッセージを考えれば、完全な誤訳だと思います。)。
話はどんどんずれていきますが、音楽は、こういう本質的な問題を考えるときに、直球で、感覚的わしづかみで、正面から提示してくれます。映画もそう。芝居もそう。
「人権」とか、大事な言葉だけれども、時として頭でっかちになってしまう言葉ですよね。言葉で、頭でばかり考えるのではなく、こういった表現に接して、体でその本質を感じる姿勢を、機会を持たないと、「人権」とか、憲法の言う「個人の尊厳」の意味する本質をふまえた活動は出来ないと感じます。
人権活動家のスピーチよりも、憲法学者の言葉よりも(知り合いの人、ごめんなさい)、時としてこのようなStingの歌やPVのほうが、またはMilesの演奏のほうが雄弁です。刑事訴訟法の講義よりも(これも知り合いの人、ごめんなさい)ドストエフスキーをまず読むほうが、学ぶべきことがらがたくさんあるように思います。問題は感じる力で、だから法律家は、または法律家になりたければ、たくさんの音楽を聴け!映画を観ろ!小説を読め!マンガも読め!・・・と僕は思うわけです(^^)
と、久しぶりにつれづれと書いてみました。こんな駄文ですが、読んでみて皆様はいかがお考えでしょうか。
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