「日本社会と外国人学校」
拙稿「日本社会と外国人学校」が、在日本朝鮮人人権協会(http://www.k-jinken.ne.jp/)発行の雑誌「人権と生活」7月20日号に掲載されています。
「外国人学校」をめぐる問題、朝鮮学校をめぐる問題に関心がおありの方にお読みいただければ幸いです。
今回の論文では、「公教育」の「公益性」と、この社会の中で外国人学校が果たす役割を考え、またその役割を考えたときに、外国人学校(特に朝鮮学校)自身がどのような視点を持っていくべきなのか、ということを考えてみました。
一部、拙稿の中から引用します。
(以下一部引用)
私が言いたいのは、「公教育」あるいは教育の「公益」性を考える際に、その基盤原理を「国民国家」というところに置くそもそもの出発点を、そろそろ変えなければならないのではないかということです。
今、社会学の世界では、社会統合の原理を「国民国家」から違うものに置き換えられないか、では何に置き換えればいいのか、ということが言われています。そこで「多文化共生」というものが、一つの案として提示されています。これは必ずしも完全な案というか、代替手段にはなっていないという意見もありますが、「国民国家」というものがどうしても攻撃的で他者排除的になるのであれば、それと置き換える形で、「多文化を共生させる」という一つの理念を中心において、それを緩やかに共有していこうという形は、検討に値します。そしてこの理念を、教育、ひいては社会の中心の理念にしていこうという、そういうことが最近議論されてきています。そういう意味で「多文化共生社会」は、まだ未成熟な部分はあるにしても、新しい社会統合の理念になりうる可能性があると思います。
(引用終わり)
また、外国人学校内部の改革についても、以下のように書いています。
(以下一部引用)
私は、今まで外国人学校が志向してきたものも、今後のためには、この観点から捉え直しをする必要があるのではないか、と思っています。具体的にはまず、「多文化社会」という言葉の意味するところを検証する必要があります。そして、「多文化共生社会」が必要とするものは、基本的には、個人を潰さないで伸ばしていくための教育、そして、「国家」というものを前提としないで(フィクションとしての国家の「存在」は否定できないにしても)、自分たちが社会をどのように生きやすく生きていくのか・社会をどのようにして生きやすい社会に変えていくのか、その社会に参加をしながら社会メンバーとして主体的に考えていくシステム、だと思います。そのシステムを育てる場として「公教育」を捉え直して、それを提示していくという事が必要だろうし、(中略)そういう意識がないと、日本社会に対する説得力もないし、文科省も動きません。(中略)外国人学校内部で、このような視点での議論がこれまで以上に展開されるべきと思っています。
(引用終わり)
さらに詳しい内容は、「人権と生活」をご購入いただき(発行元の上記サイトからアクセスしてください)、原文をお読みいただければと思います。拙稿のほかにも、金尚均さん(龍谷大法科大学院教授)の論考など、とても興味深い論文が掲載されています。
さて、このような問題を論じるときに注意しなければならないのは、こういう問題提起をするときに、大人の気持ちが勝ちすぎるあまり(それ自体は大人の思いの表れであって、責めるべきことではないと思うのですが)、当事者である子どもたちを置き去りにしないことだと思っています。我々の目的はあくまでも、子どもがどう「育つ」か、そこに親が/大人がどう関わるかというところにあります。常に自分の活動のあり方を振り返り、自戒し続けなければなりません。
今回の問題については、「民族教育権」という言葉についても考えてみたいことがあるのですが(上記拙稿の中でも少しだけ触れています)、長くなるので、それは次の機会に譲ることにします。
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